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「朝のぶらじるにて。」
■午前9時■昨夜飲み過ぎたせいか、朝の窓から注ぎ込まれる光とはいつも以上に仲良くなれない。一番奥の窓際の席を選んだのは失敗だったかもしれない。これでは最近肌の調子が良くないことがばれてしまうではないか。♣ライブの後に行ったバアで、私がチンザノのロッソが好きだと言ったら彼はふいに店員にレモンを頼んだ。「これを絞ったほうが美味しいよ」と言ってくれたのが、まるで自分のことを想ってくれているようで嬉しかった。その飲み方をとても気に入ったように見せたほうが印象が良いと思い、それだけを何杯も飲んだ。彼と目が合うと、瞬間でも彼が自分のものになったような気がして気持ちが昂った。そんな昨夜の景色に浸りかけていた時「お待たせしました。Bセットになりますー。」といって運ばれてきたモーニングが私を遮断する。■9時15分■待ち合わせの時間は9時。「明日一緒にモーンングを食べよう」そう言ったのは彼のほうからだった。彼のホテルにも近かったし、日本で最初にモーニングを出したという触れ込みのある「ぶらじる」は話題性としては最適だと判断し、ここに決めた。■9時20分■焼きたてのパンをちぎり口に入れてみたが、なんだか心臓の音が高鳴り上手く飲み込めない。水だけが上手に私を通過していく。♣ピアノを弾く男性は素敵だ。なんとも言えない色気が伴う。開演と同時に彼のピアノと共に流れてくる歌声に涙が止まらなかった。もしかしたら結局ここで終わっていたら良かったのかもしれない。■9時30分■隣のおじさんがあくびをする。彼はもしかしたら来ないつもりなのかもしれない。自分を守るにはそんな選択が必要だった。目玉焼きをフォークで刻み口に運ぶが味がしない。♣ライブの後、彼はファンに囲まれていた。好きな人に「好きです」と言える喜びを満喫している彼女達が眩しい。そんな女性になりたいとも思わないが、仮に自分がそんな女性であるならば、不幸な歌を歌うこともなく、ヲルガン座もなかっただろう。彼に出会うこともまた同じ。天の邪鬼な自分の気質に引きずられながら風景としての彼女達をみていた。■9時35分■煙草に火を付けゆっくりと吸い込んでみる。諦めと自分の惨めさに昨日とは違う涙が滲んだ。ここがカフェではなく、昭和喫茶で本当に良かった。小説的にして格好がつくというものだ。コーヒーはもう完全に冷めきっている。♣「飲みに行かないか?」彼はステージ上で片付けをしている私に近づき、別な方向を向きながらそう言った。彼は歌通りの人で、一見明るく振る舞うが影が潜む。そのバランスの悪さが余計に私を引きつけた。バアを出た帰り際にそっと彼の左腕を持ってみる。見上げたらうなじが綺麗で彼の香りがした。他人の香りという事実に胸が痛んだ。(このまま時間が止まってしまえばいい、、)という月並みな言葉の意味を初めて理解した夜。■9時45分■セットで付いているバナナジュースの上のほうが分離しはじめて、溶けた氷の冷たさでグラスの水滴が流れ出す。慌ただしさが落ち着いた店内で、バナナジュースの分離のように私と彼の世界の違いだけが鮮明になっていく。この席を立ち、店から出て行く私は一体どんな顔をすれば良いのだろうか。いろんなことを悟られぬよう、朝はいつでも現実であり残酷だった。